義侠心の向こうにある承認欲求

SNSが隆盛を極めて以来、よく見かけるようになったのが「選挙へ行け」だの「原発反対」だのに関連した書き込みだ。書くだけならまだしも、彼らはそれを否定するような人に対して声高に「それはどうなんだ!」と否定気味で襲いかかってくる。それらの声はとても大きく、世の多くの人がそういった気分で過ごしているように見える。

だが実際はどうだろう。投票率は相変わらず低いし、原発は政治の世界まで届ききっているとは思えない。結局のところ、これらはノイジー・マイノリティ(声高な少数派)であり、物言わぬ多数、サイレント・マジョリティ達はSNSにはほとんど姿を表さなくなってきた。

これらは何もSNSに限ったことではない。それ以前、むしろ「サイレント・マジョリティ」とかいう言葉があるくらいだから、ずっとそういったことは散見されてきているのだろう。wikipediaで見てみるとアメリカのニクソン大統領が1969年に演説で用いたということだから、少なくともここ50年くらいはそういった捉え方は少なからずあるのだろう。

SNS以前にも同じことを思った。とある店にあるフライヤーを見たら、そのほとんどが「〜反対集会」的なイベントを告知するものばかりだったのだ。普通のイベントよりも多いそれらを見て、否定的な意見を言う人は声が大きいなと思ったものだ。

勿論少数派であるからこそ声を大きくあげないと、多くの人に伝わらないというのはわかる。しかしSNSで見られるそれらは同じような趣旨のもと行われているのだろうか。

前回、日本におけるインターネットの進化を承認欲求から見た形で書いたが、今回もその観点から見てみると、彼らは簡単にいえば「つながりやすい(認めてくれる)友達」をSNS上で見つけるために声高に叫んでいるように思える。少数派は数が多くないがゆえに仲間をみつけると一致団結しがちである。そうでないと戦えないから。なのでSNSで同じような主義主張を持った人を見つけると即座に仲間として行動するようになる(勿論SNS上での話だ)。

さらに例えば「選挙へ行け」というのは社会的にとっても素晴らしい意見だ。選挙に行かないよりよっぽどいいだろう。つまりは社会善である。「原発反対」もそうだ。電力料金云々やエネルギー効率云々を抜きにして「危険だからやめよう」というのは人命を最も大事ととらえた社会善である。個人の利益にはなりえない公共的な社会善を振りかざすことは、例えそれを知らない人間に見られてもマイナス評価には繋がりにくい。仲間を見つけやすい発言な上に、社会的にも有益なことを書いている俺、偉いのだ。

例えば同じく少数派である性的マイノリティの発言がどれほど拡散されるだろうか。性的マイノリティの問題は社会善でもなければ悪でもない。そういったことに関してはあまり発言が見受けられないのである。あんまり反応もしてもらえないしね。

日常的なことを書いていても見向きもされない自分が、そういったことを発信することで多くの人が(この場合反対意見を持つサイレント・マジョリティも含まれる)その人物に注目し、同じ思想を持った人は声までかけてきてくれる。注目されればされるほど、承認欲求は満ち足りていき、さらなる承認を得ようと多く、より激しい発言を繰り広げていく。

そんな彼らは現実で会うと思いのほか普通の人だ。強い発言もしなければ、なんだったらそういう話題に入ってこない事のほうが多い。それは世の中の大半がSNSの世界での反応とは違う「サイレント・マジョリティ」だということに薄々気づいているからではないだろうか。現実社会ではやはりそういった意見を声高に叫ぶ人は少数だから、共感を得られることもほとんどなければ「素晴らしい」と褒めてくれる人もいない。現実社会では繋がり得ない大勢が見ている世界だからこそ、彼の発言は注目を浴びることができるのだ。

これらの発言が大量に発信されることで、まるで世論がそういった方向に傾いているように見える。しかし大半の人はそんな技を使うことはなく日常を日常のままSNSに発信するか、もしくは何も言わずただ見ている。声高に彼らの発言を否定すると社会的には悪のように見えることもあるし、それ以前に彼らの仲間から集中砲火を浴びてしまう。そんな目には合いたくないから余計に黙る。

特定のSNSを利用する人が増えれば増えるほど集中砲火を浴びてしまう様が思い浮かぶからどんどん黙っていってしまう。さらにはそれが現実の自分とつながっているのであれば尚更やりづらい。まさに触らぬ神に祟りなし状態である。

サイレント・マジョリティ達は誰に頼まれたわけでもなく、そういった発言を繰り広げていく。なんならそういうことを日々時間をかけて書き込みしている自分を「世の中のためにこんなに俺頑張ってる」と思い他者からの承認だけでなく、自分自身を認めてあげることができるのだ。でも彼らは現実で何か行動を起こすこともほとんどなければ、実名を名乗って発言することもない。

SNS弁慶の彼らは今日も義侠心にかられ社会悪を叩く。自分を認めてもらいたいとは一言も言わず、ただひたすら世の中のため。